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若い頃から神仏を求め歩いたものの、結局は神仏を離れました。今になって振り返れば、当時の自分の信仰心が正しいものであったのか、よく分かりません。宮城県 66歳 男性 |
【相談内容】私は六十六歳にして、五十九歳の妻と離婚して、今アパート一間で暮らしています。別れた理由は御互いに、愛が無くなったとゆうのが、表面的理由です。もう過去の柵を解きほぐすのは、出来ません。 私自身の事ですが、若い頃から、神仏を求め歩き、色々な団体に所属してきました。ただ其々の宗教原理、信条に傾倒することが出来ず、渡り歩き、結局は無神佛の世界をさ迷っています。私が求めたのは、心の平穏、健康で無病息災などと、誰しもが求めたものかも知れません。でも神仏は、お賽銭、献金だけでは全ての人々を救いきれないと思ったときから、神佛を離れました。今にして思えば、神仏に帰依するとは、何だったのかと思い返す事があります。求めることだけではなく、自分を犠牲にして、弱いもの、貧しい者を手助けする事が、信条にあったのか、解りかねます。 この先神仏の世界に戻れるものか、御助言戴きたく認めました。 |
【回答】合掌 まず端的に結論を申し上げるならば、神仏の世界に戻ること=信仰という自分自身の心の働きを認めることは、何歳になっても可能ですし遅すぎるということもありません。 そもそも信仰とは何でしょう。特定のイデオロギーに対する依存? 教団への参与? そうした面も確かにありますが、何よりも根本的なことは――そう、既にお気づきのとおりですね。信仰とは「心の平穏、無病息災」の祈りや「弱い者の手助け」を行おうとする共感や勇気といった、心の力の源を自覚することに他なりません。 信仰それ自体は、きわめて個人的な心の働きです。けれどもそれは、決して個々人の内面にのみとどまるものではなく、人と人とのつながりの中で共感や反発を生み、教義体系や教団組織が形成されて、「人間の現象としての宗教」として現れます。そこには「お賽銭、献金」に象徴される俗世的なものが付随し、宗教は現実社会に対して大きな力を持つ一方で、良くも悪くも人間的な欲望の問題から無縁ではあり得ないものとなります。そうした「人間の現象としての宗教」への反発が、時に人を無宗教へと追いやることも確かです。 けれども、無宗教と無信仰は違うのです。特定の教義や教団に帰依をしていないとしても、心に祈りを持つならば、生きる勇気の源を憧れ求めようとする気持ちを持つならば、それは既に信仰の入り口にあるのです。 長年連れ添った奥様と離婚を決意されるまでには、第三者にはうかがい知れない様々な感情の動きがあったことでしょう。数十年間に経験された様々な感情、慈しみや喜びや怒りや悲しみや失望といった心の揺らめきの果てに、あなたは再び神仏の世界へと目を向けられようとしています。人間の世界の経験と神仏の世界への憧れは決して無関係なものではなく、むしろ同じひとつのものの両面であるといえます。自らの心を、他人との関係を、世界との関係を良きものに整えたいという願い。そこを出発点として歩き始めることが、信仰であり宗教修行なのだと思います。少なくとも仏様の教えはそうです。 誤解を招く表現になるかも知れませんが、「良き宗教と出会えるかどうか」よりも「良き師と出会えるかどうか」が、あなたのこれからの信仰人生を大きく左右します。どんなに優れた教義を持つ宗教でも、的確に信徒一人一人を導くべき能力に欠けた教導者についたならば、信仰生活は幸福よりも苦痛や時に不幸をもたらすものになりかねません。どんなに凡庸な宗教でも、信徒一人一人の内面を汲み取り的確な援助ができるような優れた教導者に出会えたならば、信仰生活は人生をとても実り豊かなものにしてくれる筈です。――いや、もっと極端なことをいうならば、他の誰にとって愚鈍極まりない宗教者であったとしても、あなた自身が心の底から信頼できる導き手と出会えたならば、それはとても幸福なことなのだと思います。 あなたがこれまでに触れてこられた様々な宗教、これから触れられる様々な宗教を通じて、そうした良き師との出会いが訪れることをお祈り申し上げます。再拝 |