家庭を持つことを諦め宗教に近づきましたが、知識は増えても気持ちが伴いません。

愛知県 51歳 男性 


【相談内容】

 血縁者に遺伝的疾患を抱えており、長い間悩んだ末、満40歳を迎えるにあたり、家庭を持つことをあきらめました。しかし毎日の生活の寂しさは隠しようもなく、仏教に救いを求めんがために、仏教関係の書物に目を通すなど事あるごとに接近をはかってまいりました。電子説法も毎晩読ませていただいております。

 このようなことを十年以上続けてきましたが、おかげで仏教に関する知識は増えたものの、自分が仏教に近づいているという気持ちにはいっこうになりません。元来家庭的にも無宗教な環境で育ってまいりました。結局の所、自分は生来の”非宗教的人間”ということなのでしょうか?それとも五十歳を過ぎて頭が十分固くなってから、あらためて宗教を求めること自体無理なことなのでしょうか?それともこのような状況を打破する手段があるのでしょうか?


【回答】

 合掌

 まず最初に、これだけは言っておきたいと思います。「生来の非宗教的人間」はいません。年齢が宗教性を疎外することもありません。人は、人であるというだけで既に宗教的な存在なのです。

 こういうと、少し混乱されるかも知れませんね。宗教に全然縁も興味もない人だって多くいるのですから。私が「全ての人は宗教的存在だ」というのは、決して教団とか教義とか、形式としての「宗教」を指しているのではありません。例えばあなたが「寂しい」と感じておられる、そのお気持ちを指して宗教的だというのです。

 私は家庭を持っています。ですから、あなた自身が責任を負う必要のない理由から家庭を諦められたことによる具体的な思いを同様に感じることは、私にはできません。「できる」といえば、それはあまりにも失礼になります。けれども、寂しいという気持ち、やりきれないという気持ちは、あなたのものとはまったく別の状況の中で、私も感じたことがあります。

 現在地球上に存在する四十億の人間の中で、ある一人の人間とまったく同じ遺伝子を持ち、まったく同じ生理反応を示し、まったく同じ家庭・社会・国家・地域に住み、まったく同じ経験をしてまったく同じ人格を形成した人間は、果たして存在するでしょうか。いませんね。一人一人個性的な、四十億の違う人生が、今、存在しているのです。しかし、それだけ膨大な人生の中にも共通するものがあります。それは心です。怒り、喜び、寂しさ、温もり、妬み、哀しみ、慈しみ……。具体的な状況はまったく違っても、経験する心の質は同じなのです。

 そういう意味で、あなたの経験される寂しさと、私の経験する寂しさは、繋がっています。あなたと日蓮聖人も、あなたと法華信仰者(法華経を制作した人)たちも、あなたとお釈迦様も繋がっているのです。法華宗僧侶としての範を超えるので敢えて日蓮聖人に連なる人々以外の名前は挙げませんが、あなたが読まれてきた宗教宗派の方々もまた、あなたの苦しみと繋がっている筈です。

 そのような目で、あらためてお手元の本を読み返してみてください。仏教の教理・哲学は煩瑣ですが、それは決して机上の空論や思考ゲームではありません。それぞれの人の心の苦しみや幸せの経験が、教義を語る言葉となり、その言葉が別の人の心の苦しみや幸せに響いていく……それが人類の繰り返してきた宗教史の本質だと私は考えています(だからこそ、その中には尊いものばかりではなく醜いものも混じり込んでいるのですけれど)。論理的理解をすることよりも、言葉の背後にある心の響きに耳を澄ますようにすることが、宗教書を読む際の第一の心得でしょう。いや、読書ばかりではなく、現実の人間関係の中でも、それは大切な事柄です。

 人生経験の乏しい私では力不足で、具体的な状況に対するアドバイスは叶いません。ひとつだけ示唆をするならば、現在のあなたの人間関係の中で寂しさが拭えないのであれば、例えばお近くの寺院などを訪れられて、「信仰の仲間」を求めるのもひとつの手段です。師弟を親子に例えたり、信者同士を兄弟姉妹と呼ぶなど、宗教的な繋がりは心の深い所での結びつきであるだけによく家族関係に準えられます。血を分けた相手ではなくとも、共に暮らす相手ではなくとも、あなたに良き人生の仲間が得られることをお祈りします。

 再拝

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