『信仰の理由』

保阪正康

朝日新聞社


 人は信仰を持たなければ生きていけないのだろうか。そんな問いを胸に、自らは特定宗教の信仰を持たない作家がいくつかの宗教教団を訪れ、その信仰の姿を見つめるルポルタージュです。著者は昭和史や医療関係を主な分野とするノンフィクションライター。巻末近くまで読んでようやく、実は昨年十月二十八日にご紹介した『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』の著者と同一人物であることに気づきました。

 特定宗教の信仰を持っていない、といいましたが、著者に信仰心がないのではありません。著者は「宗教」と「信仰」を峻別します。宗教は教団や教義などの固定的なもの、信仰は個人の内面にある情念。彼は、自分はおそらく生涯特定の教団に所属することはないだろうといいながら、般若心経を唱えることで自らの信仰心を意識しています。著者は二十代の頃、「宗教とは自我意識をもたず、自立することもできない弱い人たちの逃避の回路」(七頁)と考え、宗教や信仰を蔑視していました。けれど年齢を重ねるうちに宗教を信じる人の心の在り方を理解するようになり、肉親や友人の死、とりわけ年若い息子の病死を契機に、自分自身の問題として信仰を捉えるようになったのです。

 電子説法の古くからの読者ならお気づきでしょう。著者の経た心の過程は、私のそれと非常に良く似通っています。それだけに、本書における著者の姿勢は私にはとても共感できるものでした。

 本書で取り上げられるのは、イエスの方舟、金光教、日本ホーリネス教団、日蓮宗不受不施派、伊勢神宮、法相宗など新旧問わぬ十一の宗教団体です。教団の中心人物にインタヴューし、教団の成立史と現状を概観し、そして、その教え・会話・宗教施設を通じて自分の心に起きる響きに耳を傾ける。ティク・ナット・ハン師の言葉を噛みしめ、座禅を経験して「誰もが悟りを開いたら社会経済の活力は失われるだろうな」と考え、伊勢神宮の境内を歩きながら自分が西行などのような敬虔な気持ちになれないことを感じる。讃美や嫌悪といった陶酔的感情に陥ることなく、著者はひたすら対象と自分自身との交感の有様を見つめ続けます。

「信仰のすがたはそれぞれの個人によって異なるというのが宗教の本来」(二二〇頁)。巻末において著者が述べるこの言葉に対しては、おそらく、宗教者から賛否両論が寄せられることでしょう。例えば日蓮聖人門下では異体同心ということを重要なスローガンとしており、著者の言葉は一見、これに反する考えに思われます。けれども、よくよく考えてみてください。「同心」は決して、洗脳的な狭い視野の強制を意味するものではない筈です。「異体」つまりそれぞれに違う能力・思考・感情を抱えた個々人が、それぞれの経験に基づきそれぞれのアプローチで、人間にとって普遍的な価値である何か(「お題目信仰」)に共に目を向けること。それが異体同心ということです。異体でありかつ同心である、そのバランスを見極めることが、私たち宗教者の集まりに欠かすべからざる大切なことなのでしょう。

(初出:電子説法一日一話 2001年9月)

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