『感情の科学 心理学は感情をどこまで理解できたか』

ランドルフ・R・コーネリアス
斎藤勇監訳

誠心書房


 仏教という宗教は、この世界が苦しみに満ちたものであるという認識から出発し、その原因を私たち自身の心の仕組みに求め、心と行いを整えることで苦から脱しようとする体系です。とりわけ怒りや悲しみ、喜びや慈しみといった感情の分析は、部派仏教や唯識など一部の宗派で盛んに行われました。同じような試みが近代的学問の厳密さの中で行われているのが、心理学だといえます。現代心理学はこの問題について一体何を語っているのだろう、という興味から手に取った本書。ここには、感情についての心理学の四つの理論が学説史的に紹介されています。

 チャールズ・ダーウィンに始まる「ダーウィン説」は、感情の機能を進化の過程における自然淘汰から説明するもの。この学説では、感情に基づく表情や行為の基本的な部分は世界中の民族に共通しており、危機回避など個体保存・種族保存に適したものであると考えます。ウィリアム・ジェームズの流れを汲む「ジェームズ説」は、感情という体験の根拠を身体的・生理的体験に求めるもの。例えば、何か危険が迫った時に人は恐怖を心に抱き鼓動が高鳴って汗ばみますが、ジェームズ説によれば、動悸・発汗という生理作用が起きるからこそ恐怖という感情を人は体験できるのだといいます。感情は個人がその出来事に対してどのような評価をするかによって決まるという「認知説」と、その延長にあって家庭・社会・国家などの文化的規定が個人の感情を大きく左右しているとする「社会的構築主義説」は、むしろ文化系の方には馴染みやすい考え方でしょう。

 著者は、これらの四つの理論が必ずしも相反するものではないといいます。感情というものをどのように定義づけるか、研究対象にどの角度からアプローチするかの違いであり、それぞれに互いの欠点を補いながら総合的な感情心理学を若い研究者がうち立てることも不可能ではない筈だと。更に「非科学的なあとがき」と名付けられた最終章では、感情心理学という科学の知見が私たちの日々の暮らしに与えてくれる智慧について示唆しています。落ち込んで肩を落とし暗い表情をしている時に、姿勢を正して微笑めば心も幾許かは軽くなる(ジェームズ説)。強い拒絶や愛着の感情がその人の持つ信念や偏見を照らし返していることを知れば、良い感情=幸福を持続させるためには時に信念・偏見を反省する必要があると分かる(認知説)。地域・民族間で文化的背景の違いに基づく感情表現の違いがあり、生まれてからずっと慣れ親しみ学習してきた文化コードを崩すことはとても困難だけれど(社会的構築主義説)、どの民族・国民・信仰者も人類として同じように日々苦しみや喜びの体験を繰り返している(ダーウィン説)ことを知れば、ホロコーストや戦争を避け世界を共に生きようとする智慧が生まれるのではないか──。

 根っからの文系人間で「科学」門外漢の私には、一読で本書の内容を咀嚼するにはつらいものがあったことは確かです。けれどもそれ以上に、人の心の問題について科学的手法を用いて様々な実験・検証・議論が積み重ねられてきたこの分野の歴史が持つ熱いロマンは感じ取りました。何より、全ての学説をフェアに紹介しながら「人の心」について読者に穏やかに語りかけてくる老賢者然(それほどの歳ではなさそうですが)とした著者の態度に好感が持てます。図書館から借りてきた本なのですが、買って手元に置いておく価値があるかも知れません。

(初出:電子説法一日一話 2001年10月)

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