『インターネットの中の神々 21世紀の宗教空間』

生駒孝彰

平凡社新書


 本書は、WWW上の宗教情報を概観する内容になっています。著者の専門が代アメリカ宗教であるだけに、取り上げられるサイトもアメリカのものが大半を占めているのは残念です(一応一章を日本に割いているけれど、おざなり感は拭えません)が、テーマとしてはツボ所を押さえた良書といえます。

 まず第一章で著者は、1920年代からのラジオ伝道、1950年代からのレビ伝道がアメリカの民衆に強くアピールした事実から説き起こしています。日本ではあまりテレビ伝道を見かけませんが(CSはどうなんでしょう?)、ラジオ伝道は新宗教を中心に早朝の時間などにやっていますね。しかしアメリカでも、テレビ伝道師のスキャンダルが相次ぐなどして、一時のような隆盛は失われ、代わって90年代に激烈な増加を見せたのが、インターネット伝道でした。

 プロテスタントやカトリック諸派をはじめ、モルモン教やものみの塔などのメリカ生まれのキリスト教、ラジニーシやハレ・クリシュナといった非キリスト教系新宗教など、実に様々な教団がホームページを開設しています。日本でもちょっと検索すれば、宗教教団の公式ホームページや各寺院のサイトは枚挙にいとまがありません。第三章では、インターネットの情報交流の容易さから、それらの教団が様々な社会問題への何らかの回答を求められている様を解説しています。女性聖職者の叙任、聖書の差別語(例えばSon of Godのように、男性語を普遍名詞として用いることなど)、同性愛、中絶。興味深いのは、こうした議論の余地ある社会問題に対して、教団の公式見解とは異なる意見を信徒グループがWWW発信している事例です。たとえば、信者を洗脳し自分の意志をなくさせていると反対派から批判されているものみの塔ですら、同性愛を罪とする教団の中に同性愛者のグループを抱えているようです(98頁)。

 私がインターネットの宗教言説に注目している最大の理由はここにあります。

 情報発信の容易さは、信者個々人が何を考えているのかが、教団のコントローを離れて発信される可能性をもたらします。宗教教団は「世界とは何か、人間とは何か」についての意味体系である教義を持つのだけれど、一般に考えられているほどには、信者は厳密にその教義を理解し受け入れているわけではありません。信仰という情緒的方向付けは論理的受容を要件とはしないからです。上記のように信仰を持ちながら教義の一部を受け入れられないでいる人もいれば、教義を誤解・曲解している自覚のないまま「自分は正当な信者だ」と考える人もいる。教義を一所懸命に勉強して教義のとおりに自分の意見・意志を方向付けるファンダメンタリズム(原理主義)もあれば、宗教史的背景を何一つ知らぬまま農作業の行き帰りに辻の庚申塔にそっと手を合わせて念仏を唱えるシンクレティズム(宗教混交)もある。そのいずれもが信仰の形であり宗教であるのです。

 そして私が宗教という現象に関心を持っているのは、宗教エリートが作り上た哲学体系の衒学性が面白いからではなく(いや、それも確かに面白いんですけどね(^_^;))、市井の人々の多様な宗教的営為を通して、人間の心が世界に意味を見いだす姿が鮮やかに浮かび上がるからなのです。そこには勿論、綺麗なものばかりじゃなくて、汚いものもある。人間が抱える美しく暖かなもの(例えば友愛、内省、自己犠牲)、醜悪で残虐なもの(例えば「敵」への嘲笑と攻撃、自我の膨張、利己心)、論理的には互いに矛盾する全ての人間的なものが宗教現象には顕れていると考えます。

 結局私にとっての宗教学は、人間学に他ならないのですね。

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 著者は最終章の中で、インターネットを通じて様々な宗教情報を得た結果宗替えした人がいる事に触れ、続いて次のように述べています。

 さらに考えられるのは、「超神学」が誕生する可能性がある、というだ。これまでならば、社会問題等を解釈する時、キリスト教ならば聖書、仏教ならば仏典、イスラム教ならばコーランを用いて説明するのが普通であった。だが、インターネットを活用すると、あらゆる宗教の考え方はもとより、政治や経済、医学などの情報がすぐに得られる。その結果、多方面から物ごとを考え、多様な社会問題に柔軟に対応できる新しい神学が必要だ、というのである。それが超神学だ。   (196頁)

 この点については、ちょっと先走っているな、と思います。インターネット情報へのアクセス性を飛躍的に高めたとはいえ、情報自体は書店や図書館、テレビなどを通じて従来から個人の処理能力を遙かに越えるほど溢れていました。けれど必ずしも物事の多様な見方が一般的になったわけではありません。社会学の認知的不協和理論が示すように情報を自分に都合の良いようにねじ曲げて解釈することもあるし、そもそも知的好奇心をもって見聞を広めようとしなければ情報は伝わりません。情報が溢れることと人の「智恵」が洗練されることは別次元の事柄なのだと思います。

 インターネット時代に大切なのは情報リテラシーを高めること、つまり、情の海の中から必要な情報とそうでないものとを見分け体系づける能力を持つこと(無論その前提としては知的好奇心を持つこと)です。今後学校教育や社会教育の中で、そうした技能の修得が重要なテーマとなってゆくのでしょう。

(初出:ISIZE BOOK 1999年11月)

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